「忠臣蔵」の赤穂浪士の敵役でおなじみの吉良が、
南区蒔田に領地をもっていた!
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蒔田の森公園
1479年の話です。
世田谷~蒔田まで領地であった。
小田原北条に守られ、北条5代が滅びるまでは安泰でした。
現在は横浜英和女子学院の敷地となっている場所にあった蒔田城。
学校の隣地の吉良家の菩提寺(勝国寺)には、吉良家の供養塔が残されています。
北条早雲の傘の下、吉良政忠の孫「頼康」と
早雲の孫、北条氏綱の娘「崎姫」との婚姻を結ぶ。
お姫様に付いて来た家臣が、今も蒔田に残る森・苅部・並木家です。
崎姫の連れ子である氏朝が4代目吉良家当主。
再び北条早雲の孫、北条幻庵の娘「鶴松姫」が嫁ぐ。
北条幻庵が嫁ぐ娘に持たせた「嫁に行く心得」24項目の覚書「北条幻庵覚書」。その中に姫様に付いて来た家臣高橋家の名が記載されています。
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覚書の本物が平成26年(2014年)7月19日~8月31日まで横浜歴史博物館が「蒔田の吉良氏 戦国まぼろしの蒔田城と姫君」の企画展で、展示されていました。
その名の通り公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団が発行。編集 横浜歴博物館。「蒔田の吉良氏 戦国まぼろしの蒔田城と姫君」に詳しく記載されています。ぜひお買い求めください。
そもそもなぜ、蒔田に吉良氏が居たのでしょう?
吉良義氏から遡ります。
長男(吉良義継)が東条吉良氏
・・・蒔田氏へ・側室の子
次男(吉良長氏)が西条吉良氏
・・・上野介へ・側室の子
三男(足利泰氏)が足利当主
・・・足利尊氏へ・本妻の子
吉良の地名はもともと雲母が出たことで「キラキラ」と光ることから吉良とつけたというそうです。
・・・愛知県吉良町の「あない人の会」の方からの情報です。
西条と東条の名前の由来
川を挟んで西と東に分かれ「西条吉良」「東条吉良」となりました。
蒔田の吉良氏(奥州吉良氏)
長 男である(東条吉良氏)が奥州征伐に出向いている間に次男(西条吉良氏)にお城を取られり、東条吉良はつぶされました。戻るにもどれず力になったのは北条 早雲、清和源氏の流れをくむ吉良家を家臣とは扱わず、世田谷~蒔田まで領地を与え大切にしたそうです。吉良家当主三代、四代目と上記のようにお姫様を嫁が せました。
北条家滅亡
1590 年北条氏政切腹。小田原城落城。北条が滅んだ後は世田谷を追われ、本来「豪徳寺」は吉良の菩提寺でしたが徳川の世になり井伊家の寺となりました。平成17 年に「遠藤周作が愛した城・世田谷城城跡保存会」が立ち上がり、蒔田へ見学に来られた40名程の皆様が偶然にも松風苑にご昼食のためにお立寄りになり、う れしいご縁が生まれました。
吉良氏の子孫はどこにいらっしゃるのか、
吉良氏はどんな方だったのか。………
時の流れを辿り、人の繋がりをたぐっていくことは私たちの共通のロマンです。
書物の中だけでなく、世に名を残した偉大な人物が「確かに此処に居た」「確かに此処を歩いた」と実感することに感動を覚えます。歴史を知ることは、この国を大事に想い先人に感謝する心を育てます。感謝の心を私たち大人がしっかり持って、子供達に伝えていきたいと思います。
私たちと歴史を紐解く旅を歩いて下さる仲間を広く募ります。ご興味がある方、歴史が好きな方ならどなたでも参加して頂けます。
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