蒔田の吉良歴史研究会

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世田谷から蒔田まで領地でしたが「北条氏が秀吉に滅ぼされた後、井伊家に蒔田(まいた)があるじゃないか。蒔田へ行け!但し吉良を名乗るな・・・・」とは、花岳寺の住職鈴木悦道さん(元NHK大河ドラマ時代考証人)からのお言葉です。


蒔田(まいた)氏を名乗って現在の英和学園の地に「蒔田城」を構え徳川の時代へ と移りました。その後忠臣蔵で有名な西尾の西条吉良はお家断絶。

その後を引き継いだのが蒔田の吉良氏。

徳川に陳情「蒔田氏から吉良氏」の名許され幕末まで東 条吉良家は残りました。

 

 愛知の吉良町で有名な「赤馬最中」の東角園の女将でさえも蒔田に吉良があった事は知りま せんでした。歌舞伎、浪曲、講談等で忠臣蔵、赤穂浪士の討ち入りが美談としてもてはやされ、「吉良上野介はとんでもない悪い奴」とつい最近まで私も正直 思っていました。

 

今思うと昭和50頃宿泊お泊りでお城が好きなお客様がいて、英和女学院がお城だったことを知っていて、勝国寺の住職に会わせてほしいとお 連れしていたのです。不思議なご縁を感じます。

知っている人は知っている。今更何をと言われる方がおられましょうが・・・・

片道4時間、吉良日帰りの旅を実現。

 愛知の吉良町へある人から誘われ「吉良さんは世間で言うほど悪い人でない。吉良の町へ行けば分かる。行って見て来てほしい。」

と言われ、華蔵寺(吉良上野介の菩提寺)の先代住職の奥様の中学時代の同級生(渡辺真平さん)が横浜市磯子に在住、その方の案内で何気なく集まった6人とお邪魔させて頂きました。

平成20年6月のことです。

 


華蔵寺に隣接して「花岳寺」と言う吉良家代々の菩提寺があります。

そこの住職「鈴木悦道」さんにお会い、熱心に語られる蒔田の吉良のお話を聞く度に蒔田に住むものとして責任を感じ始めました。鈴木悦道住職も何度となく蒔田へ足を運んで下さり、蒔田連合の皆様に一生懸命蒔田の由緒ある歴史をお話下さいましたが、昨年(平成26年2月)ご逝去されました。その思いをつなぐべく歴史の事実とその時代に生きた思いを探って行きませんか。最新情報をご報告しながら縁ある方々の講演会を続けて参ります。

 鈴木悦道住職はNHKの大河ドラマの時代考証人でした。

「峠の群像・独眼竜政宗・元禄繚乱」を手掛けられました。蒔田が「東条吉良」であり「花岳寺」は「東条吉良」ゆかりの寺であることで蒔田が気になって気になって仕方がなかったようでした。

現在事務局の島田紀子は当時蒔田連合女性部長の役を頂いていたので平成21年の年春、連合女性部長の新旧交代の名目で「吉良のお寺に筍堀に行きましょう!」とお誘いして日帰り旅行を計画28名の参加でした。

その年の秋今度は40名で柿をもぎに参りますと約束、町内、ご縁ある人達に声をかけ何処からともなく集まったのが、丁度40名鈴木悦道住職に約束を果たしました。

片道4時間朝6時に出発帰宅夜9時長時間にわたる、吉良日帰りの旅は、この年2回鈴木悦道住職との約束を無事果たしました。

今度は1泊で……。次への夢を膨らまして約束をして帰りました……。



蒔田の吉良歴史研究会『発足記念の日』の旅

蒔田の吉良歴史研究会 研究員

平成25年10月21日(月)「黄金堤」前にて

蒔田の吉良歴史研究会発足の日記念の日

次は1泊での約束に4年の月日が流れました。

この時平成17年に立ち上がった世田谷城跡保存会の

副会長「河原英俊氏」含む4名がご参加下さいました。

鈴木悦道住職も入退院を繰り返していたようでしたが、

本堂で私たちを元気に出迎えて下さいました。

この日蒔田の吉良歴史研究会が発足したことを伝えることが出来ました。

残念な事に翌年の2月ご逝去されました。

きっとこの会が末永く継続できるよう、ずーと見守って下さっていると思います!

 

平成21年10月19日(月)「黄金堤」にて

「秋に柿もぎに40名で参ります」と、

吉良家代々の菩提樹「花岳寺」住職鈴木悦道さんとの約束通り

ぴったり40名で伺いました。

渡辺真平さんのご協力で!この度も有難うございました!!

平成21年4月

吉良上野介菩提寺「華蔵寺」山門前にて!

蒔田連合女性部新旧交代18町内女性部長

吉良へ筍堀に行きませんか!の呼びかけに参加して下さった皆様。

吉良へ行く事を勧めて下さった佐藤健一郎さんや、

案内人の渡辺真平さんにご協力戴きました。

水野連長、松島主人、海老沼さん他男性陣も協力。

みんなで筍を沢山袋に詰めて帰りました。


2012年8月4日 東京新聞の朝刊に、

吉良分家のご子孫探しの記事が掲載されました。

 

右の写真は朝刊に大きく取り上げて頂き、大変感激した想い出の新聞紙面です。この記事で蒔田町を知らない方々にも知って頂けたのではないかと思います。

 

下記は明智憲三郎先生の『本能寺の変 四二七年目の真実』公式ブログからの引用です。

ブログに掲載して頂いているのを見つけて先生にご連絡、掲載とリンクの許可を頂きました。

ありがとうございます。

 

明智憲三郎先生の

『本能寺の変 四三一年目の真実』公式ブログ

http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/2a67a4259dda742be2ef325e9b1df1e3

 

【2012年8月10日記事】から引用

 忠臣蔵で評判の悪い吉良上野介。その上野介の吉良本家は赤穂浪士の討ち入りでお家断絶しましたが、分家は存続し江戸幕府から横浜南区の蒔田(まいた)町に領地をもらって、東京の世田谷から移り住んだとのことです。


 東京新聞2012年8月4日朝刊に蒔田町の旅館の女将さんが吉良分家のご子孫の方を探しているという記事が掲載されていました。先祖の無念を晴らすためにも名乗り出ていただけるとよいのですが。


 記事によれば、蒔田町の吉良分家は明治時代に千葉県睦沢町へ移る一方、家を継ぐ男子がいなくなり、交流があった世田谷で、当時の東京市議を務めた故鈴木堅次郎氏に家名を預けたとのことです。

 皆様、お知り合いに吉良さん、千葉・横浜に地縁のある蒔田さんがいらっしゃれば、是非この情報をお伝えください。

 

【2012年11月3日追記】から引用

 8月10日の記事で吉良家のご子孫を横浜の蒔田町の旅館の女将さんが探していることをお知らせしました。

 コメント欄におひとりだけ「そうかもしれない」と応答がありましたが、残念ながら確証を得ることはできませんでした。facebookに登録されている6名の吉良さんにもメッセージをお送りしましたが、お礼のメッセージが1名の方から返ってきただけでした。また、私と同じマンションにお住いの吉良さんにもご連絡しましたが、「該当しない」とのことでした。


 全く成果なしと思っていたのですが、土岐会でお付き合いのある山田哲司さんが心当たりをあたって調べてくださり、明治時代に千葉県睦沢町へ移った蒔田家の分家の方と連絡が付いたとのことです。ともあれ、ほっとしました。


 山田さんの調査によれば、「足利義持の頃の古文書にある蒔田郷が蒔田の初見で、現在の横浜英和女学院の所に蒔田城があり、城主吉良頼康は吉良上野介義央の先祖にあたる。吉良家は足利氏の嫡男左馬頭義氏の子の義継が三河国 吉良荘で初めて吉良姓を名乗った。

以後、代々守護職として足利将軍の重臣をつとめた(西の吉良家)。吉良左兵衛佐成高が鎌倉公方足利持氏より世田谷区と蒔田に土地を賜り、成高が世田谷城を築城すると、子頼康が蒔田に築城し住んだ(東の吉良家)。

(以上、宝生寺文書による) 


 江戸幕府から東の吉良家は蒔田を名乗るように命じられ 蒔田を名乗ったが、西の吉良本家は47士討ち入り事件後 取りつぶしになった」とのことです。

 

 

 

2015年6月3日

明知憲三郎氏の講演会

横浜歴史研究会主催

中央に座っていられる方が

明智憲三郎先生

(明智光秀の子孫)

まさに明智先生の講演会の日が「本能寺の変」の日とあって意味深いものとなりました。 ※上記写真左から

・横浜歴史研究会事務局長 / 針靖人氏

・蒔田の吉良歴研究会事務局/島田紀子

・横浜歴史研究会会長/加藤導男氏

・明智憲三郎先生

・横浜歴史研究会副会長/堀江洋之氏

・横浜歴史研究会副会長/竹村紘一氏

「本能寺の変431年目の真実」

(文芸社文庫

作者 明智憲三郎氏

現在30万部突破

明智憲三郎先生が蒔田の吉良の殿様を一緒に探して下さり紹介もしてくださいました!左面了解を得て載せさせて頂きました。

「織田信長 四三三年目の真実

信長脳を歴史捜査せよ!」

明智憲三郎著(幻冬舎)

2015年7月23 日 発売 

㍻26年6月29日第1回蒔田の吉良講演会、講師 17代当主上杉邦憲氏の時参加下さいました。憲三郎氏の左隣の方が明智光秀の本妻の子山田哲司氏と聞きました。この日山田さんは茨城県守谷市みずき野からお越しくださいました

マイクを持ってご挨拶されている方が17代当主上杉邦憲氏